若き日の創業社長 小楠剛一

身に付けた技術だけが財産
小楠金属工業所、その幕開け前夜

昭和16年、国内産業の多くが軍需産業へと転換し戦争の暗い影が忍び寄るなか、当社の創業社長小楠剛一は、勤めていた三菱電機名古屋製作所を退社して浜名郡篠原村に帰郷した。そして郷里に近い浜松市森田町に小屋を借り、ミシンの部品製造を開始した。これが当社のルーツである。事業をはじめるにあたっては、三菱電機でみっちりとならい覚えたミシン製造の技術が役立った。自らの手で事業を興す―その信念を胸に抱いた三菱電機時代に、機械の操作から構造や性能まで詳細な研究を積み重ねていたのである。

小楠剛一は明治44年生まれ。現在の浜松市坪井町、当時浜名郡篠原村坪井の商家の息子として生まれ、高等小学校時代は、学業優秀で何度か表彰された。大正15年に高等小学校を卒業すると、数年間は家業である魚や野菜の仲介業を手伝っていたが、昭和11年、25歳の時、母親の死去を契機として三菱電機名古屋製作所に就職することになった。ここで当時の先端技術を目のあたりにし、大いに触発されるところがあったことは想像に難しくない。名古屋から帰郷してはじまった剛一の事業はしかし、太平洋戦争の勃発によって中断せざるを得なかった。剛一はやむなく中島飛行機の下請け工場に就職し、飛行機の部品製造に従事する日々を送ることになった。

そして迎えた終戦。日本中は名実ともに打ちひしがれていたその年の10月、剛一は持ち前の不屈の精神を発揮し、いち早く戦災機械の再製と修理の仕事を開始。工場は自宅の物置を利用した。のちに剛一は社員に向かって「日本は負けて三等国になったと言われているが、そんなことはない。だから何も卑屈になる必要なんかない。元気を出して頑張れ」と折りに触れてハッパをかけたが、それは何よりも自分自身へのハッパであったことが推測される。剛一のもとには復興を目指す近隣の工場から次々に仕事が持ち込まれ、毎日は多忙をきわめた。

昭和20年代後半~30年代はじめの篠原地区の風景。第二次世界大戦の頃までこの地区の産業は農漁業を中心に発展。
戦後は兼業農家が増え、タマネギやサツマイモの栽培が急速に広まった。

ミシンの中釜生産で大当たり
作れば売れる時代の大奮闘

昭和21年3月、浜名郡篠原村坪井1番地で当社は産声を上げた。小楠剛一をはじめ創業メンバーは4名。整備した戦災機械を使って、まずは戸車や自転車のペダル用の玉押しを製作した。これは、創業直後の経営を軌道にのせるための資金稼ぎの意味もあったようだ。何もかも作れば売れる時代で、明けても暮れても一日何百もの玉押しを作る日が半年ほど続いた。創業から1年たつかたたないうちに、ミシン用中釜の生産がスタート。当時国内でミシンの中釜を生産していたのはシンガーやブラザーといった大手だけで、中小の企業が手を出せないほど技術的に難しかったことがわかる。そのなかで当社は大手に匹敵する品質を送り出していた。その理由を、三菱時代に体得していた技術に加え、英文の文献までひも解いて最新の技術を導入しようとしていた剛一のセンスに求めることができる。もちろん創業メンバーの執拗なまでの熱心さも忘れるわけにはいかない。

当時性能のよい専用機は値段が高くて手が出ず、必要とあらば他社に納入されたその外見から構造を推測して図面を起こした。その神業のような技能を発揮したのが、創業間もなく戦力に加わった剛一の弟、保司である。図面に基づいて他の社員は自社製専用機の製作にあたり、できあがった機械は、驚くべきことに予想どおりの機能を果たしたのである。ここに技術立社としての当社の源流を見ることができる。

(右写真)昭和21年3月、ミシン中釜の製造で軌道にのった当社は小楠金属工業所としてスタートを切った。創業地の浜名郡篠原村坪井1番地には、現在は住宅が建つ。

直径4.5センチほどのミシン中釜は、繊細な構造のために精密な技術を必要とした。

設立当初の資金稼ぎを兼ねて、自転車のペダル用の玉押しなどを制作した。玉押しはベアリングを押さえるコーンのこと。(写真の玉押しは現在のもの)

「株式会社小楠金属工業所/技術開発の概要集」に描かれた液体浸炭焼入炉の構造。右はミシン中釜の外観図。

液体浸炭焼入加熱炉の考案で
生産能力を大幅に向上

ミシンの中釜製造をはじめた当初は、製品の表面を硬化させる方法として固形浸炭焼入加熱炉を使用していた。浸炭剤として木炭やコークスを使用する固形浸炭焼入法は、表面硬度のバラツキが大きく、生産能力が低い点で問題があった。

小楠剛一は独自のアイデアで、熱効率のよい渦流式構造の液体浸炭焼入加熱炉と耐熱ルツボを開発し、これにより、硬度の安定した品質の実現を果たした。さらに改良を加えて、予熱・液浸・焼入の3工程を連結渦流式とし、生産能力を4倍に高めるとともに、使用する重油の量を半分以下にするという画期的な成果も得た。

従業員と喜びを分かち合う 法人化とともに持ち株制度を導入

昭和25年7月、資本金50万円で株式会社小楠金属工業所を設立。設立と同時に従業員持ち株制度を実施し、労苦をともにする従業員に報いる姿勢を明確にした。当時の株券は50円株。従業員は積立をして徐々に株を買い増ししていった。

翌26年9月には生産力の増強を期して第二工場(篠原町国方)を新設。もと繊維関係の工場で戦後一時的に農産物の集積所となっていた場所を借り受け、補修をして使うことになった。第二工場の面積は坪井新田工場の3〜4倍。坪井新田工場から工作機械を運び込んだほか、剛一自らレンガを積んで浸炭炉を作った。6畳一間ほどの広さ、高さ1メートルほどの浸炭炉をひとりで完成させる剛一を、社員全員感心して見守っていた。本職さながらにレンガを積み上げる剛一は、高等小学校卒業後の一時期、左官屋に奉公していた経験があり、それを聞いて全員が納得したという。

この頃の売上高を見ると、昭和26年444万円、27年653万円、28年1016万円と急激な伸びを示している。目覚ましい勢いで生産量が増えるのにともなって、最初はがらんとしていた工場内も徐々に手狭になっていった。 昭和25年~26年頃、ミシン産業が最盛期を迎え、リズムやブラザーなどの大手企業が中釜を含むすべての部品の内製化をはじめた。当社のような中小企業では太刀打ちするすべもなく、ミシンの中釜を全廃し、以前よりつきあいのあった鈴木自動車工業(株)(現スズキ(株))の協力工場として自動車部品に専業化する決断が下された。ここに、当社の第一幕は終わりを告げ、さらなる飛躍の待つ第二幕が幕を開けることになる。

多くの社員が参加したソフトボール大会(前浜にて)

昭和26年に完成した第二工場の跡地。現在は社宅が建っている。

株式会社 小楠金属工業所
70年の歩み

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  • 昭和21年~28年 ミシンの中釜から本格稼働。黎明期の小楠金属工業所。
  • 昭和29年~40年 モータリゼーションの発展にのり急激な拡大を見せる成長期のはじまり。
  • 昭和41年~50年 経営の優良性と進取の精神に裏打ちされ、引き続く成長のベクトル。
  • 昭和51年~60年 低成長期から景気の上り坂へ。社是・社訓を拠りどころに変化の時代に対応。
  • 昭和61年~平成8年 創業の精神に新たな意味を付け加え、21世紀へのさらなる飛躍を願う。
  • 平成8年~17年 いざなみ景気に後押しされた平成の成長期。将来を見据えた設備投資と新たな挑戦。
  • 平成18年~28年 篠原町から世界へ。小楠金属工業所は新たな飛躍のステージへ。

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